「書を読む」ということ
キンプリからいったん離れ、今回は本の話です。
物心ついた頃には家に大量の絵本があり、今思えば私が本好きになるのも必然だったと言えば必然だったかもしれない。
中学二年生だったか、三年生だったか、どういう経緯か夏目漱石にハマったことをきっかけに本好きは加速し、今やそういった類の研究をしている。
さて、そんな本好きな私だが、はてなブログの記事を漁っているとき、
「本は三日で読み切る、読みたい部分だけ読む、面白くないと思ったらやめる」
という文言が目に入った。
なるほど、確かに私も資料を読む際に自分の研究に必要な部分だけ読むときもある。
「読みたい部分だけ読む、それだけでも知識は増える。知識が増えると、日常は面白いことばかりだと気付く。」
わかる
この部分にはものすごく同意したい。
読書をすることで得られる知識はとてつもなく多い。
読む本のジャンルによっては得られる知識のジャンルも幅広い。
そしてその知識が活用される場面は意外と多い。大学生になってひしひしと感じている。
しかし一番言いたいのはそこではない。
「読みたい部分だけ読む」
だがこれは小説などのストーリー性のある本には有効ではない。
小説は一部分だけ読んでもわからないことが多い。
いや一部分だけ読むなとは言わない。素晴らしい小説というのはたとえ一部分であっても人の心をつかむことは可能だ。そして世の中にはそんな素晴らしい小説がたくさんある。
だが、そんな小説も最後まで読むと、その「一部分」も違った印象になる。
そもそも小説ほど「最後まで読む」ことを前提にしている本はないだろう。
「最後まで読む」前提で伏線は張られるし、「最後まで読む」前提で物語は進んでいく。
映画化もされた『僕は今日、昨日の君とデートする』のような小説は、一部分だけ読んでも、その面白さはほとんど伝わらない作品の一つだ。
私は読書がとても好きだ。
本も大好きだ。
大切なことはだいたい本と音楽が教えてくれたと言っても過言ではない。
しかし読む本に偏りがありすぎる。
具体的に言うと私は小説しか読まない。
大学生になり、研究のために学術書も読むようになったが、趣味では全く読まない。
意図して避けてるわけではないのだが、私の中で「本=小説」の方程式が勝手に出来上っていたのだ。
だから上記の文言を見た時、少し違和感を覚えた。
小説は一部分だけではその面白さを存分に味わえないからだ。
とは言え、小説意外にも面白い本はたくさんある。読むことでさまざまな知識を得られ、日常の些細な面白さの発見にも繋がる。
知識が増えれば、それだけ引き出しも増えるのだ。
自分は圧倒的に引き出しが少ないと日々感じる。
サブカルチャーの引き出しはあるが、それ以外はあまりない。
そういった引き出しを増やせるのが本であり、また教養とも言い換えられるのだ。
大学生になって色々と忙しい日々を過ごしており、高校生の頃のようにほぼ毎日本屋に通って色々な本を見て回ることがなくなった。
二月の中旬も過ぎれば少し忙しさも落ち着くだろう、また特に目的もなく本屋をふらふらと歩きたい。